はじめに川南小学校での取り組み|小松彼岸獅子|獅子会とは?ししまい君(3D)リアル獅子舞CG

●小松彼岸獅子

正保2年(1654)と寛文13年(1673)の2回に渡り栃木県那須市野沢より伝承されているが何れも中絶している。以後、享和元年(1801)現在の南会津郡下郷町弥五島から伝承されたものが小松彼岸獅子舞のルーツとされている。

このことについては、小松地区大竹家より発見された貴重な獅子文書の一部の写しにより明確になった。戊辰戦争の折には、日光街道田島を守った家老山川大蔵部隊の先頭に立ち、敵があっけにとられているうちに包囲された城内に一兵も損ぜず引き入れた話は有名であり、また、美談として語り継がれている。後に御楽園で松平容保公に獅子舞を披露し、そのお礼と戊辰戦争の功績に対し、太夫獅子に会津葵の頬掛けを送られ高張り提灯に会津葵の御紋の使用を許された。

戊辰戦争後これが衰えさらに敗戦により、当時30数組もあった獅子団は減少の一途をたどり現在13組を残すだけとなった。

しかしながら、我が獅子団もこの後活動が衰退し約20年近く活動が中断し消滅寸前まで行った時期があり、このような状況に危機感をもった人物が古老の家を訪ね復興を強く願いながら、大正15年青年同士と共に約4年の歳月をかけて実現させ更に、小松のみ保持する「女獅子隠し」まで復元習得させた。

また、太平洋戦争をどのように乗り切るかと大変心配し苦労したようである。幸いなことに当時の青年がしっかり護ってくれたことにより現在に至っている。このように獅子舞に対する先人の情熱は感動的であり、また、我が獅子団の誇りでもあり、昭和47年4月1日 北会津村無形文化財の指定を受ける。

系統と来歴独自の伝来経路を持つと思われる小松彼岸獅子の来歴は長年不明であったが、小松の大竹重信家から小松彼岸獅子を管掌してきた覚法院文書の写しが発見されたことによって、その伝来経路が明らかになった。その文書によると、小松彼岸獅子は慶長の頃、那須市野沢町遠藤四良兵衛に伝えられ、以来四良兵衛はこの地に獅子舞の元締めになり、さらに南会津地方を経て正保二年(1645)下小松の法印渡部宮内に伝えられた。しかしながら、小松の獅子舞はその後中絶したためか、寛文十三年(1673)、再び遠藤四良兵衛から伝授書を得ている。しかし中絶はその後もあって、享和元年(1801)に三度目の伝授書を遠藤四良兵衛の系列の南会津郡弥五島渡部茂左兵衛から受けている。ただし、このときの伝書は那須市野沢の遠藤四良兵衛(代々襲名したものと思われる)が小松に伝授したようになっているが、弥五島の渡部茂左兵衛が伝書しているので、小松獅子はそれまでも那須の遠藤四良兵衛から直接伝授されたものではなく、弥五島からの伝授と考えるのが妥当であろう。換言すれば、弥五島には免許権はなく、名目上は那須の遠藤家がこれを与えるという体裁を取ったものであろう。

小松獅子隊について小松彼岸獅子については、戊辰戦争時に山川隊に協力し、西軍の裏をかいて会津若松城に入城を果たした逸話が有名である。この逸話に関する文献および証言を元にこの場面を再現すると、明治元年(1868)八月二十六日、山川大蔵隊は、西軍の包囲の厳重な会津若松城への入城を試みた。それに先んじて山川は小松村村老の大竹重左衛門と斎藤孫左衛門を呼んで協力を求めた。二人は村人を集め、「松平家三百年の恩顧に報いるはこの時ぞ」という山川の言葉を伝えた。村人の意気は大いに揚がった。山川は重左衛門と孫左衛門に指示して、村内から笛・太鼓のすべてを集めさせた。 笛・太鼓は集まったものの、問題は誰を獅子舞の演者として選ぶかであった。山川の作戦は、彼岸獅子舞を先頭に敵前を通過して入場を敢行するという大胆不敵なものであり、作戦の失敗はすなわち演者の死を意味した。村老たちの協議の結果、隊長の高野茂吉以外は独身の若者だけで組織することになった。最年少者は、弓持の藤田与二郎十一歳であった。家族や村人と水杯を酌み交わしたのち、作戦が開始された。 二十六日未明、山川隊は小松彼岸獅子隊を先頭に縦列を作ってひそかに大川を渡渉し、飯寺西方に集結した。山川大蔵が前進を命じると、小松彼岸獅子隊が一斉に「通り囃子」の演奏を開始し、会津軍が篭城する会津若松城を目指した。彼岸獅子の演者をはじめ、全軍威風堂々の敵前行軍に、西軍は虚を衝かれ、所属部隊の誰何をすることもなく、ただただ山川隊の行軍を見送るばかりであったという。山川隊は、城門が近づくと一気に西大手門より入城を果たし、作戦は成功した。 この時の作戦に協力した小町彼岸獅子隊の面々は次の通り。

御弓 藤田与太郎 十一歳
太夫獅子 蓮沼千太郎 十二歳
雄獅子 大竹己之吉 十二歳
雌獅子 中島善太郎 十四歳
笛 高野茂吉 三十歳
笛 高木金三郎 十四歳
太鼓 渡部藤吉 十八歳
太鼓 大竹小太郎 十四歳
太鼓 藤田長太郎 十七歳
太鼓 高野長太郎 十五歳

これらの人々は戦後、無事帰村している。 明治四年松平容保・容大父子が帰若の際、御薬園に仮寓していた折、山川大蔵のはからいで、この年の二月十七日、旧藩主父子の御前で小松彼岸獅子の舞が披露された。父子は大変喜び、先の入城作戦の折の勇気を称えてお褒めの言葉を賜り、さらに、小松彼岸獅子に限って、頬掛と高張提灯に会津葵紋の使用を許可した。以来、小松彼岸獅子舞は連綿と伝承されて今日に至っている。なお、小松彼岸獅子の服装、演目等についての詳細は、「小松獅子舞考」(高久金市著/坂井正喜監修)等に詳しい。

参考文献 :
「会津大事典」(国書刊行社)
「会津若松市史/会津の民俗芸能」(会津若松市)
「小松獅子舞考」(高久金市著/坂井正喜監修)

「会津若松市三匹獅子舞調査報告書」(会津若松市教育委員会)



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